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zoom RSS 誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)通称名;誉田さん 羽曳野市誉田3−2−8

<<   作成日時 : 2017/07/09 15:21   >>

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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)通称名;誉田さん 羽曳野市誉田3−2−8



由緒;

御祭神;応神天皇

 社伝によると、欽明天皇20年(559)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年(1051)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から一町ほど南の現在地に遷座した。

 八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われた。その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。

 神宮寺の長野山護国寺は、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。


wikipediaより





社頭(東側)
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参道・境内
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注連縄柱・鳥居・社号標
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割拝殿
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 入母屋本瓦葺で間口十一間、奥行三間の細長い割拝殿の形式で建立されています。正面中央部が拝所で、向拝部分は唐破風造り・蛇腹天井となっています。この建物は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元を任じて再建させたものですが、完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発したため八割方でき上がったまま放置されていました。その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工したものと考えられています。
 徳川家によって最後の仕上げがなされ、三ツ葉葵の定紋が付けられています。

中門
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本殿  御祭神;応神天皇
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拝殿前の狛犬
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境内末社  安産社
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境内末社  当宗社(まさむね) 式内社
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当宗神社(まさむねじんじゃ) 式内社
  当宗神社の祭神は、現在素戔嗚命 (すさのおのみこと)であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸」の祖神である山陽公を祭っていたようである。
 当宗忌寸の子孫には、宇多天皇の祖母(仲野親王の正室)が歴史上現れている。
 その旧地は、方生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に八平方メートルほど残存している。  境内案内板より


境内末社  姫待稲荷神社
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境内末社  恵比須社
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神馬
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朝鮮国王奉納灯篭
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多宝塔
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誉田林古戦場址 碑
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南入口、南大門
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 現在、誉田八幡宮の正門は、旧高野街道(京街道ともいう)に面している東門であるが、南の出入口にある切妻造で大葺の立派な四脚門はこの神社の門ではなく江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門である。
 この門も拝殿と同じく豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものであるが、大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げを行ったものである。切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられている。
 神宮寺であった長野山護国寺の本堂はこの南大門の西方正面に位置していたらしく誉田八幡宮古図(天保九年)から知ることができる。  誉田八幡宮さんHPより



祭神;応神天皇、恵我藻伏崗陵
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社務所
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手水舎
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境内案内板
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 誉田別尊(ほんだわけのみこと:応神天皇)を祭神とし、永亨5年(1433)につくられた「誉田宗廟縁起」には、欽明天皇が命じて応神陵の前に営んだ社を、後冷泉天皇の頃(1045〜68)になって、南へ一町(約109m)離れた現在の場所へ造り替えたことが伝えられている。
 鎌倉時代から室町時代にかけては、源氏の氏神である八幡神を祀る社として、幕府の保護を受けて大いに興隆したが、戦国期にはたびたび合戦場となって兵火にかかることもあった。
 その後、豊臣氏から社領の寄進や江戸幕府の庇護のもとに、社殿の債権と整備が進められた。
 「河内名所図絵」や天保9年(1838)の「河内国誉田八幡根本本社内之図」を見ると、本社や摂社、神宮寺の塔頭など、多くの建物が並び、参詣の人々で賑わうようすがしのばれる。
 源頼朝の寄進と伝えられる神輿や、丸山古墳で出土した鞍金具などの国宝、重要文化財の「誉田宗廟縁起」や「神功皇后縁起」など、多数の貴重な文化財が社宝となっている。













近畿日本鉄道(近鉄)、南大阪線・古市駅 北北東へ約530m
古市駅の北に有る応神陵古墳のすぐ南に。東高野街道沿いに鎮座しています。現在の正門・東門から入ると右側に社務所、鳥居をくぐると境内となり、広々と明るい境内奥に大きな割拝殿が、その奥に中門、本殿が鎮座しています。参道の中程左側に南大門、絵馬堂、右に姫待稲荷社、恵比寿社、神馬、など、割拝殿右手奥には式内社・当宗神社が祀られ、尚も進むと最奥にこの社縁の応神天皇陵が築かれています。神社付近は南北朝から室町時代の古戦場跡となっています!!




平成29年(2017) 5月17日  参拝






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